電脳コイル 1

yomimaru2007-05-16

bk1
著:宮村優子 原:磯光雄 画:本田雄 徳間ノベルスEDGE*1

年齢限定の《メガネ》をかけて大人には見えない世界で遊ぶ小学生の一人 優子は、黒いシミの偶然の導きで、勇子に出逢う――ふたりのユウコが出逢うとき、12歳のひと夏ジュブナイル
体言止めの多用に「大人を拒絶する子供の空間」の雰囲気が良く出ている本書なんですが、本作で強く惹かれたのは、この《メガネ》という呼び方。
ちょっと昔のSFを読んでいると、カタカナ言葉の小道具の呼び名だけ古臭くなって地の文から浮き上がり、妙な違和感を感じることがあります。
そもそも、SFの多くは、現実世界に何か架空の設定(技術とか未来とか宇宙とか)を導入した、架空世界を描くもの。世界が違えば言葉が違うのは当たり前なんだから、SF小説って、「架空世界の言葉」から「現代の言葉」への「飜訳」と見ることもできそうです。
小道具に対する表現で、「架空世界の言葉」をそのまま、「現代の言葉」から見て格好つけた綴りで書くのか。それとも、「架空世界の言葉」を「架空世界の人」が捉えている日常語としての語感に合わせて、相当する「現代の言葉」に訳し直すのか。ここが違和感を覚えるか否かの分かれ目なのかもしれません。
本書の《メガネ》という呼び名からは、架空世界の発音そのものなのに、架空世界の小学生が感じるであろう語感が今ここに、しっかりと伝わってきます。この用語選択は衝撃的。
不思議の国のアリス(キャロル/柳瀬尚紀) *2のMock Turtleの名訳「海亀フー」(英語でも日本語でもきちんと洒落になっている)とか、夏への扉(ハインライン/福島正実) *3のhired girlの訳「文化女中器」(田舎臭さがマッチ)とかを、ちょっと思い出しました。
将来大人が皆コンタクトレンズにする時代になったとしても、子供時代はたぶん眼鏡。本書をいつか読み返すことがあっても、《メガネ》が古臭くなることはないんじゃないかしら。

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