ギートステイト

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著:東浩紀桜坂洋 画:和田タカアキ 講談社MouRa*1

東浩紀が未来世界を予測し、桜坂洋が小さな成熟のぶつかり合いを物語る2045年の未来学エンターテインメント。2週間おきの連載も、すでに6thターンが終わり、再開を待つ期間になっています。
この連載に対する桜坂洋の文章には特徴がないとの感想を読んで、ちょっと違和感を感じました。たぶん私は、すぐに見てとれる《クセ》や《味》といった文体を魅力に売るのが小説の本道である、という考え方に馴染めないんだと思います。超売れている村上春樹の文章だって《クセ》のない文だと思うんです。
桜坂洋の過去作の文体については、すでに分析が始まっていますので、私はギートステイトの文体について考えてみたいと思います。
確かに本作、いつもの桜坂文体とはちょっと違う印象を受けてました。物語に応じて適した文体を変えてくるのが桜坂洋の持ち味の一つですから、本作でも何かやってるんじゃないか。それで読み返してみて、初めて気付いたこと。
桜坂パートの各話は、特定のキャラが語る一人称小説形式をとっているにもかかわらず、地の文に「私」「俺」「僕」等の自称が一切使われていません。一旦気付いてしまえば ものすごくdistinctiveな文体上の特徴だけど、なかなか気付かない《隠し味》です。
たとえば、雨の新宿と快晴のネット世界を舞台にした異世界往還型剣豪小説 スラムオンライン(桜坂洋) *2は、「Aボタンをクリック、ぼくは坂上悦郎からテツオになる。」という一文から始まります。他の作品では自称を普通に使っているわけですから、本作で使わないのには、何か理由があるはずです。
これで思い出したのが、 ケータイ小説家になる魔法の方法(伊東おんせん) *3の中の、ケータイ小説ではあまり自称を使わない、という指摘。つまり、桜坂パートの文章は、一般小説をそのままウェブに載せたものではなくて、ケータイ小説パスティーシュ、との意図が隠れているような気もします。さらに進んで、ウェブ小説ならではの文体を探る試みとも考えられます。
あるいは「ボク(とキミ)とは何か」を問うていた2000年の心象風景と、ボクそのものよりも、ボクがする「行動は何か」がフォーカスされる2045年の心象風景との差異を、この文体で表そうとしているのかもしれません。2045年のキャラの語り口を2007年現在の日本語に飜訳するとこうなる、ということですね。
代名詞は極力使わないのが良い文章だ、という話もありますが、ここまで徹底しているのには驚き。こんな工夫で《美味しさ》を増しているのにもかかわらず、読みやすくて読者に違和感をまったく感じさせない。それどころか、特徴がない、クセがない、と指摘されてしまうすっきり淡麗な文体。これこそ実は、世界観と合致させるべく選んだ《特徴》なんじゃないでしょうか。
陳腐化したアイディアでも切り口を変えることで一気に魅力が出てくることがあるように、一見平坦な文体であっても、ちゃんと文体を味わえば、実はきちんと起伏があったり、隠された宝に出会ったりすることがある。そういうものを発見できたときの喜びも「読む快楽」の一つなんだと思うのです。

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