解読「よくわかる現代魔法」

この稿は、桜坂洋の「よくわかる現代魔法ゴーストスクリプト・フォー・ウィザーズ」(以下「GFW」)に関して書いた文章からなっている。
私がなぜこの小説に関して、以下のようにしつこく語るかというと、この小説が、私の読書史上最も特異的に面白い作品だと思っているからなのである。
この小説は、読者に挑戦するかのような重層構造になっている。あ、この小説はこういう小説か、とあるとき深くわかったつもりでも、そのうちさらに深いレベルがあることに気付かされて、あ、自分は何もわかっちゃいなかったと思わされたりする。
これを単なるエンタテインメント小説として楽しめればそれでいいという考え方もあるだろう。しかしそれは、「コッポラの『地獄の黙示録*1なんてアクション映画だよ」というのと同レベルのものの見方でしかないといっておきたい。
この巻だけ1回しか読んでいない人に対しても、シリーズを何回も読んだ人に対しても、この小説について語りたい気持ちでいっぱいにさせたい、というのが本稿の目的である。

I 「GFW」第一文の衝撃

この第一文は、私にとって、特別に衝撃的な文章である。

 一ノ瀬弓子クリスティーナはパンツをはいていない。(10頁)

一方で、作者は本作のテーマとして「友達」をあげている。たとえばこの後書。

「夏休みの宿題は、夏休みの最後に、友達と一緒に楽しくやれ」
 だから、今回の話は、そういう話だ。(223頁)

だから、衝撃的な第一文も「友達」と大きく関わっているはずだ。

この稿は主として、「GFW」で一番扱いが難しいパンツの部分を論じたものである。ここでは、作者がこの小説を執筆するにあたって、下敷きにしたと思われる各種の理論や作品をなどを手がかりに、作者が込めていたメッセージを読み解いていきたい。
この稿を「深読みのしすぎ」などといって批判する人もいるだろうが、「GFW」のエンディングまでの骨格は、以下のように読めば、ますます鮮明に浮かびあがると思うのである。

II 〈シュレーディンガーの黒猫〉

桜坂洋は、幾つかの下敷きを用意して、小説ではそれをほんのちょっとだけ暗示的に引用し、ひとつの自分独自の世界を作り出すという試みをしている。
たとえば、一見しただけでは「吾輩は猫である」(夏目漱石*2の単なるパロディと思いかねない黒猫かたまりの独白。ここでは、自分が生きているか死んでいるか、それはどうでも良い、ということが何度も繰り返される。

 吾輩は幽霊である。ついでにネコだ。
 ネコが基本でついでに幽霊だったかもしれない。どうでもいいことだ。
 いまとなってはどちらでも態勢に影響はない。
 一説によるとネコは百万回生きるというけれど、吾輩は死んでいる。幽霊だから。もしかしたらこのあいだ死んだのがちょうど百万回めだったのか?(22頁)

あるいは、

 吾輩は死ぬかもしれないし死なないかもしれない。
 隻眼のハシブトガラスに一矢報いずに死ぬのは心残りであるが、それはそれでしかたのないことだと思う。危なくなったら安全な箱の中に隠れていればよいし、それでもだめなら箱ごと潰されるだけだ。ネコはじたばたせず運命を従容として受け入れるのだ。
(122頁)

一方こよみと聡史郎の会話にこんなものがある。

「もしかして、見えるんだ」
「見える?」
「ネコのゴーストスクリプト……あ、ええとゴーストスクリプトっているのは幽霊というかなんというか……
「なんであいつが幽霊なんだよ」
「幽霊じゃないの?」
「さっきからわけわからないやつだな。幽霊だと思うなら自分で(PCケース)をのぞいて確かめてみりゃいいだろ。そうすりゃ生きてるか死んでるかすぐわかる」
(73頁)

量子力学では「状態は確率でしか表現されえず、むしろ様々な状態の重ね合わせである」とされるが、この考えをシュレーディンガーは箱の中の猫のたとえを用いて示した。いわゆるシュレーディンガーの猫である。この引用部分がシュレーディンガーの猫を念頭に置いていることは、論を待たない。
作者はこれらの描写によって、黒猫であるかたまりが、現在は死んでしまった状態(美鎖と弓子の二人がギバルテスを倒した)と現在も生きている状態(こよみも含め三人で倒した)とが重ね合いの関係にあることを、暗示しているのである。
このストーリーは、これら二つの重ね合いが、重層構造をなしており、その間に因果関係を問うのは、かたまりが言う通り、無意味なのだ。
ところが桜坂洋は、その手の知識をついついひけらかしてしまいそうなところでも、このような説明は、一切しない。すべての読者にこの設定を理解させるために上記のような説明を加える、という手法もあることは、十分に知っていると思われる。それにもかかわらず、それをしないのである。
彼の禁欲的のやり方では、種々の描写を分断してまったく離れた章において重層な構造を作る。その一方で、それらの関連性を結び付ける作業は読者に任せる。
こよみの記憶内での時間遡行によって現実世界が変わってしまう部分について、批判派は、既成の空想科学小説文法の上に立ち、彼の実験的描写部分を設定やタイムパラドクスの説明が不十分だと非難する。一方、称揚派は、このような重ね合わせを無意識に感じて答えにたどりついているか、あるいはたどりついたとしても考え過ぎと思っているようだ。
人が思いもよらなかったような新しいタイプの作品が世に出るときには、賛否両論がまき起こるものだが、歴史の示すところは、より意見が対立したものほど記憶に残る作品となる。
桜坂洋は、挑戦的にも、読者に対して「そもさん」を発しているのである。一見意図不明、あるいは、説明不足に見えるかもしれないその描写は、実は巧妙に隠された謎かけなのだ。そのような謎を発見して「せっぱ」と応える、こういう作品との対話が、「GFW」の解読には必要なのだ。

III〈back to the future〉

この小説が「バック・トゥ・ザ・フューチャー」(監督:ロバート・ゼメキス)*3 (以下「BTF」)を下敷きにしていることは、第九章の章題「9: back to the future」を見てもよくわかることだが、「夏への扉」(ロバート・A・ハインライン)*4との関係については、あまり言及されていない。ここで、これらの作品の構造を整理しておこう。

 GFWBTF夏への扉
契機こよみが過去に行って、マーティが過去に行って、ダンが過去に行って、
遭遇幼い弓子に出会い、若い父母に出会い、幼いリッキィに出会い、
山場弓子との友情を確認して、父の勇気と父母の愛情を確認して、リッキィとの愛情を確認して、
帰還現代に戻ると、現代に戻ると、冷凍睡眠から目覚めると、
褒美死んだはずのかたまりが生きていた。臆病だった自分に勇気が身についた。失なったはずの幸福な結婚が得られた。
このように、この小説の骨格は、「BTF」や「夏への扉」から借りられていると見てよい。しかし、桜坂洋古今東西の名作の引用ないしパロディで本作を埋め尽くしているだけではない。
前述の通り、本作のテーマは、友達である。友達を拒絶していた弓子が友達を得ようと思い、友達を連れてくる「自分」を見て、自分には既に友達がいることに気付くまでが丹念に描かれているのだ。
一方、下敷きである「BTF」「夏への扉」では主人公(ダン、マーティ)が過去へと旅行をし、その中で人々と出会うことによって主人公自身が成長する点に焦点が当てられている。桜坂洋は、下敷きとなる物語の骨組みを換骨奪胎し、時間旅行者の成長ではなく、過去における知人(弓子)の成長に焦点を当てているのである。
このように本作は、粗雑な引用やパロディの寄せ集めではなく、彫琢と鏤刻の極致として成立した小説であり、その豊富な引用は、かえってオタク文化の遺産を最も豊富に受けつぎながら、その上に衒学的世界を構築したものである。そして、スーパーダッシュ文庫の最も重要な作品の一つにかぞえられるようになっていることは周知の通りである。
引用やパロディに埋めつくされた「荒地」(T・S・エリオット)*5も、発刊当初にそれを酷評した人々がいたという。本作をくさす側にたった人の論調には、どことなくこの人々の論調と似たところが感じられる。
が、「荒地」を真に観賞する場合に、その引用ないしパロディの背景を知ることが必要なように、本作を十分に観賞するためには、これが下敷きにしたものについてそれなりの予備知識が必要なのである。

IV〈夏への扉

夏への扉」を単なる下敷きとして引用するだけにとどまらないことは、かたまりが黒猫であることからもわかる。
扉を開けるとその先は夏であると夢想する猫 ピートは、ダンの相棒として活躍するが、ハヤカワ文庫版カバーにもある通り、ピートは虎縞猫であり、しかもクライマックスでダンを助けて敵に襲いかかる。
ところが桜坂洋は、かたまりを、虎縞ではなく、黒猫にした。なぜか。
本作のタイトル中、Ghostscriptとは、PostScriptファイルを表示・印刷するためのアプリケーションである。その動作確認には、女性ゴルファー白黒絵のgolfer.psも使わないわけではないが、虎のカラー絵tiger.psをまず用いるのが一般的だ。
だから、本作でのゴーストスクリプトの説明に現われるこよみのセリフ

「女性ゴルファー。ええと、ないすおん! みたいなそんな感じの。のの呪われたりしたらどうしよう」(45頁)

は、単純に考えても、

「虎の顔。ええと、六甲颪に 颯爽と! みたいなそんな感じの。ゆゆ優勝したりしたらどうしよう」

とした方が、その手のコンピュータ使いにはわかりやすいはずである。実際tiger.psはどうした、との意見も感想の中に見かけた。

しかし、ここで虎を出した上、さらにかたまりを虎縞猫にするわけにはいかない。虎のゴーストスクリプトが重複して登場しては、同じ猫科であるかたまりの印象が弱まるからだ。
そこで、桜坂洋は、Ghostscriptのもう一つの代表的な白黒絵であるgolfer.psを使った。その上で、人である女性ゴルファーが黒を基調に描かれていることと、かたまりが黒猫であることとを対比させ、両者のゴーストスクリプトとしての共通性を暗示させているのである。
かたまりを黒猫とした上で、あえてtiger.psを使わなかったのは、これから展開していくストーリーは、「夏への扉」の骨組を下敷きにはしているものの、種々の組換えを行った文脈で読んでくれるようにとの、作者からのメッセージなのだ。

V 〈失われたパンツを求めて〉

あの第一文を含め、パンツの扱いについては、賛否両論がまきおこった (詳細については、感想リンク集を参照されたい)。「GFW」をめぐる見解の違いの一つに、小説のエンディングをめぐる問題がある。
私の友人は、小説のエンディングを読んで、あれではパンツをはいていないことが生きていないといいだした。
しかし私は、本作のエンディングでの描写を支持する者である。エンディングでは、戦闘終了後、パンツをはいていないことを示唆する文は、これだけである。

「じゃあ、わたしは先に失礼するわ。そんな格好で風邪ひかないようにね」
 塗装のはげた金網になんとかよりかかった。体の熱が網目状の金属に吸いとられていくのが心地良かった。(203頁)

一方、問題の第一文から始まり、パンツをはいていない不安を克明に描写する冒頭、パンツを投げつけることによって他者との関わりを断った弓子は、不安に襲われる。この冒頭の描写は、11頁〜14頁にわたる。たとえば、

 だけれど、たった一枚の薄い布きれをつけずに街角を歩いているだけで、全世界の通行人に視線で体を射抜かれているような気がした。
 パンツというものは意外に奥が深い。(14頁)

なるほど、このような克明な描写と単純に比べると、エンディングでのパンツはいかにも扱いが軽いようだ。しかしこの14頁の描写、こんな風に文言の置換をしても、何ら違和感がない。

 だけれど、たった一人の友達も連れずに街角を歩いているだけで、全世界の通行人に視線で体を射抜かれているような気がした。
 友達というものは意外に奥が深い。

友達もパンツも、心弱き自分を他人から守る鎧であることに違いはない。

このような冒頭の描写は「パンツをはいていない」ことと「友達がいない」ことの双対関係を読者に投げかけている。友達がいないことをあからさまに描写するのではなく、パンツという象徴を用いて、友達や友情を暗喩しているのである。
弓子が一人でいるシーンでは、パンツをはいていないことについての描写が詳しくされる。たとえば、一人で公園まで逃げ出すシーン。ここでは、弓子と板との接触や、弓子自身の意識にも言及がされている。

 気温と同じ温度に冷えたベンチがおしりに冷たい。木の板のでこぼこはいつもより攻撃的だ。こんなときまで下着がないことを意識させられるとは情けない。(95頁)

一方、次第にこよみに心を開いていくシーンでは、あっさりと描写されている。パンツをはいていようがいまいが、冬の大理石のブロックは冷たいだろう。

 こよみが自分の横をしきりに指さすので、しかたなく花壇の端のほうに弓子も腰を下ろした。大理石のブロックがおしりに冷たい。道行く人々は、ふたりの少女にちらりと視線を投げては足早に去っていく。(147頁〜148頁)

このように、友達との距離に応じて、パンツをはいていないことの描写の詳細さに差がつけられている。95頁では、パンツをはいていない=友達がいないことを弓子が自覚させられている。一方、147頁〜148頁では、弓子の意識はパンツをはいていない=友達がいないことには向いていない。道行く人々から見れば「ふたりの少女」は友達同士であり、弓子の側にはこよみがいるからだ。
実に緻密であるというほかない。
自ら友達を得ようと決心した弓子はギバルテスに独りで立ち向かい、負け、こよみとの友情を得て再度闘いに挑む。そこで弓子は、「弓子が友達と遊ぶ」のを目の当たりにする。遊園地で遊んだ過去の自分のゴーストスクリプトが、ギバルテスが憑依している剣の周囲の遊戯場のゴーストスクリプトを連れて飛び跳ね、ギバルテスを無防備にする様である。
この時点で、弓子は、求めた友達としてこよみを得ている。そして、友達とともに生きる喜びを心の奥にまで染み込ませている。
もはや、「友達のいない不安」=「パンツをはいていない不安」はない。
203頁の美鎖は、だから、パンツには言及しない。冬の夜の寒さを親切に伝えるだけだ。金網にもたれたときの冷たさを、弓子が腿や腰ではなく、背中や腕から感じるのも、弓子の友達と交わろうとする意思、友達が得られた喜びがあるからなのだ。
このシーンでは、弓子はすでに「心のパンツをはいて」いるのである。

VI 〈これがゴーストスクリプト戦争だ〉

ゴーストスクリプトを友達として扱ったかどうかが、ギバルテスと弓子たちの闘いに結着を付けた。ギバルテスと弓子には、こんな対比をすることができる。

 ギバルテスちび弓子
過去剣十郎に剣で負けた親に遊園地に連れられて来た
憑依そのときの悔しさが、彼を殺した剣に憑依してギバルテスのゴーストスクリプトとなったそのときの楽しさが、彼女が遊んだ遊園地に憑依してちびちび弓子のゴーストスクリプトとなった
友達ギバルテスが憑依した剣は、彼に命令された遊戯場のゴーストスクリプトが廻りを囲んでいるちび弓子はパンツをはいていない
戦闘命令された遊戯場のゴーストスクリプトは、ギバルテスから離れるちびちび弓子は、友達である遊戯場のゴーストスクリプトを連れてちび弓子のもとへ向かう
終局剣に憑依したギバルテスのゴーストスクリプトは消失ちび弓子には友達ができ、「心のパンツ」を得る
見事なまでの双対関係だ。
ギバルテスのゴーストスクリプトが憑依していた剣は、遊戯場のゴーストスクリプトを鎧としていた。つまり、ギバルテスの「大事なもの」(剣)が、ちびちび弓子の「友達」(遊戯場のゴーストスクリプト)によって守られているのである。
それでは、女の子の大事な部分を守るものは何か。パンツである。
弓子はパンツをはいていない。彼女の大事なものは守られていない。だから、友達を得なくては、闘いには勝てないのだ。
ちびちび弓子のゴーストスクリプトは、遊戯場のゴーストスクリプトを友達とすることによって、ギバルテスからひきはがす。魔女のライブラリを介した「命令」の関係よりも、友情に基づく「友達」の関係の方が重要であることが、ここに示唆されている。
堅い殻に守られた卵子精子から螺旋構造のDNAが流れ渾淆し、新しい生命=過去が組み替えられた新しい世界が生まれることを暗示したラストバトルの描写も同様である。

 森下こよみは魔法使いに手をあてる。ほつれた穴にクリスマスショッパーがコードの道をつくったのが弓子にも見えた、土台となったクリスマスショッパーは魔女のライブラリと渾然一体となり二重の螺旋状に絡みねじれる。ふたつのコードが縞模様を描きながらこよみの体に流れ込んだ。コードが組みあがった。(202頁)

スカートめくりの男の子から弓子が返してもらうはずのものは、縞々パンツであることを思い出して欲しい。縞模様は友情や協力の証なのだ。

このようにパンツと友達の重層構造は、ラストの闘いでも生きている。本作においてはパンツの描写が鍵であり、読者を挑発する第一文なくして本作は成立しないのだ。

VII 結び

文学でも、映画でも、はじめ評価が高くても、そのうち飽きがきて、みんなから忘れられてしまうことがよくある。しかし、その深さと重さにおいて比類がないような作品は、論議を呼び、ある人には反発を、ある人には絶賛を得て、いつまでも人々に論じられるものである。
「GFW」は、そのような作品として、これからも長く人々の記憶にとどめられるべき作品と信じてやまない。