ゲーム的リアリズムの誕生 動物化するポストモダン2

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伝統的な自然主義的な読解に加え、作品外的な事実が作品に呼び込む別の主題を捉える《環境分析》的読解による物語の行方論。
一時期話題になった人生は神ゲー*2の議論では、「人生は超リアル高性能なゲーム」という主張に対して、「ゲームはリセットでやり直しになるけど人生は死んだら終わりなところが決定的に違う」という反論がされていました。どうも、「リセット≒死」と捉える人はたくさんいるようです。
でも、「リセット」って、単なる「死」じゃないような気がします。間違えて電源コードが抜けたとき、ハードディスクが吹っ飛んだとき、何かバグで青い画面になったとき。それから、ソースを客に納品して再利用ができなくなったとき。
こういった、全部をやり直す羽目に陥る状況が、私にとって身近な「リセット」です。
これまでの蓄積が消えてしまう、という意味では、確かに「リセット」は「死」には違いないんだけど、でも、同じ問題を仕方なくやり直すと、意外にさくさくうまく進むし、自然に改良ができたりもする。確実に「生きている」ものがある。
果たして、この「リセット」って、本当に「死」なのか。むしろ「プチ死」「プチリセット」ともいうべき感覚って一体何なのか。本書は、そんな問いに一つの答えを与えてくれました。
本書では以下のような各種のリアリズムが対比されています。私なりに簡単にまとめるとこうなります。

自然主義的リアリズム
現実に即した世界の中で一度きりの生を営む《私》を描写して《私》の生を浮き彫りにする。
まんが・アニメ的リアリズム
架空世界の中で一度きりの生を営む《キャラクター》を描写して《キャラクター》の生を浮き彫りにする。
ゲーム的リアリズム
架空世界の中でリセット可能な複数の生を営む《キャラクター》を描写して《キャラクター》の生を浮き彫りにするとともに、その《キャラクター》を通じて架空世界と関連性を持つに至った現実世界の《プレイヤー》の生を間接的に浮き彫りにする。

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個別作品論では、ゲーム的リアリズムを自覚した作品としてAll You Need Is Kill(桜坂洋) *3を掲げ、これを一つの指標としています。
そして、小説からは九十九十九(舞城王太郎) *4を、ゲームからはONE*5、Ever 17*6ひぐらしのなく頃に*7を取り上げて、対比しながら論を薦めています。

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AYNIKの読後に、熱さと冷たさという相反する印象を受けたんですが、熱さは《キャラクター》の生に、冷たさは《プレイヤー》の生に、それぞれ対応するものだったのか、と得心しました。2つの逆向きの主題の重ね合わせ、というアクロバティックな構造なんですね。
人生神ゲー問題でも、《キャラクター》としての生と《プレイヤー》としての生を、本書の環境分析的な手法で切り分けることでもっと深く考察できそうな気がします。
本書は、上記作品群のネタバレになっています。何作か読んで/プレイした後に、本書第2章にとりかかるのが良いかと。
作品を読み、本書を読んでから、その作品に対する自分の読解を思い返し、自然主義的な部分と環境分析的な部分の割合がどんな風だったか見直すのも楽しいと思います。
お薦め。

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