夏とスラムと少女の死体

前回は、スラムオンラインサマー/タイム/トラベラーの物語構造上の差異について指摘するとともに、げんしけん究極超人あ〜るとの相似性に言及した。
今回は、前回言葉が足りなかったかもしれない「ユートピア」の捉え方から、話を始めることにしよう。

グレートマザーが狙われる!

前回は、登場人物たちにとって「居心地の良い場所」を「ユートピア」と呼んだ。読者の理想像が超人(スーパー高校生)であり、一つのユートピアに生涯とらわれ続けることを「悲劇」である、と述べた。

スラムオンライン (ハヤカワ文庫 JA (800))

そして、一期一会のユートピアとして、げんしけんをあげた。スラムオンラインでは、ジャックらが最強を決めようと闘うが、一旦決まってしまえば、そのユートピアは消えてしまう。
一方、サマー/タイム/トラベラーの喫茶店夏への扉〉では、饗子の旗振りのもと頭の良い不良高校生が集い、光画部のような永続するユートピアを構成している。
ここでは、もう一度「ユートピア」というものの性質を考えてみたい。
まずは共通点から見てみよう。これらのユートピアに共通する特徴といえば、こんなものが考えられる。入るまでの敷居は高いが馴染んでしまえば結構居心地が良く、外界では受容されにくいメンバーの特質も暖かく包みこんでくれる。
一方で、卒業しようという気持ちが抑えられる環境であり、出ていこうとすると、他のメンバーはもちろん、自分自身も抵抗を感じる。引き止めようとする力が、自分自身の内外から働くのである。
だから「卒業」には、多大なエネルギーを費すか、ユートピア自身が消えることを要する。

サマー/タイム/トラベラー (1) (ハヤカワ文庫JA)

ここで思い出されるのが、母の二面性を無意識化したユング心理学の〈グレートマザー〉だ*1。自身の子を育てるために他人の子を喰らう鬼子母神のように、子供を慈み抱擁する心と、子供を抱き込んで離そうとせず、時には子供を喰らおうとする心、こんな二面性を持つのがグレートマザーである。
グレートマザーは、人を暖かく抱き止め、大事に包んでくれる。一方で、そこから脱出しよう人を引き止めて呑み込もうとする。時には人を(ある意味で)殺すことも厭わない。
ユートピアが人の姿をとると、グレートマザーとなる、と考えることができるかもしれない。
幼子の頃、母の胸の中にいるのは居心地が良い。子を愛する母の懐は、「ユートピア」なのだ。
しかし、成長した子供は、あるとき、その息苦しさに気付く。そして、母の胸を離れて外の世界に向かおうとする。愛ゆえに子を抱く母は、独立しようとする子を解放せず、呑み込もうとするようになる。
子が母の愛に絡め取られ、押し潰されるとき、その母の胸は子にとっての「反ユートピア」になる。

サマー/タイム/トラベラー (2) (ハヤカワ文庫JA)

グレートマザーは、人の姿をとったユートピアであると述べたが、これは、「ユートピア」もこの二面性を持つからである。
たとえば、高校や大学のサークルを考えてみよう。そのサークルに馴染み青春を謳歌している間は「ユートピア」なのだが、外に新しい目標を見つけて卒業しようとするとき、そのサークルは息苦しい「反ユートピア」に変貌している。
ここでサマー/タイム/トラベラーのエピローグを見る。
卓人にとって、結婚、コンペ落選、娘の合格発表といったイベントは、生活環境が大きく変容する時期である。
卓人の「卒業(ユートピアからの離脱)」が実現するかもしれない時期に、狙いすましたように悠有が現われ「じゃあ。またね」と言って消える。
卓人に「悠有を忘れるな。あの夏を忘れるな。また来るぞ」と告げるのだ。
これは、ユートピアから離れようとする状況に対して、ユートピアへ戻そうと促す力の現れと思える。
新たな世界を目指して未来へ進む悠有の存在が、卓人を〈あの夏〉に呑み込ませるのだ。

故郷は遠きにありて想うもの

辺里のような地方都市もまた、このようなグレートマザー的性質を持つ〈場〉なのだと思う。
母に愛され育った懐しい思い出の故郷。密な人間関係が心地良くもあり煩わしくもある場所。なかなか自分を解放してくれない重苦しい場所 ―― こんな地方都市からの脱出をモチーフとする作家の一人が桜庭一樹だ。

bk1

彼女もまた、リアル・フィクションの一画を占める作家である(ハヤカワ文庫JAから10月に新刊予定)。桜坂洋と同世代らしき桜庭一樹だが*2、たとえば内田善美や吉野朔美への志向からしても、オタク第2世代に属するのは間違いないと思う。
推定少女は、SF色が高いと考えられる桜庭作品の一つだ。ボク女カナが美少女白雪とともに地方都市から脱出して東京へ向かい、その後に白雪と別れて帰還し、仲の良かったお兄ちゃんが消えた地方都市で、千春を含む新たな人間関係に一歩を踏み出す物語である。
サマー/タイム/トラベラーの地方都市辺里は、地方コミュニティの幸せなユートピア的側面と饗子や卓人を縛る場所としての反ユートピア的側面を表裏一体に合わせ持つ。
推定少女で描かれる地方都市は、反ユートピア的な側面を、より一層色濃く見せている。たとえば、超人であったはずのお兄ちゃんが無理矢理JAに就職させられてしまう場面。JAは、地方都市の象徴だ。
巣に籠っていた彼女(「巣籠」は、カナの姓でもある。)は、巣から一旦飛び立ち、また帰ってきた。
帰還したカナは、地方都市における自身の生き方、距離の取り方を身につけている。
一方、お兄ちゃんは超人の姿を取り戻してはいるが、電脳戦士となって地方都市から消えてしまい、もう会うことはできない。
カナが帰還してみると、グレートマザーに保護され、他者から生を与えられる巣であった地方都市は、彼女が自ら生きる場所に変貌していた。彼女の往還によって、反ユートピアの解体がなされたのだと思う。

ひとりのイーダ

げんしけんについて考えたときにも見た通り、いまどきのオタクは、オタク的価値観と非オタク的価値観との擦り合わせを余儀なくされている。スラムオンラインにも推定少女にも、これに対応する擦り合わせが見てとれる。

All You Need Is Kill (スーパーダッシュ文庫)

推定少女では、カナの一人称「ぼく」が一人の少女のアニムス的側面を象徴する一方で、美少女白雪はアニマ的側面を表している。地方都市から脱出することで、ある一人の人格の二つの側面(アニマとアニムス)の幸せな融合を描いたものと捉えることもできる。
スラムオンラインでは、リアル世界での悦郎とバーチャル世界でのテツオの精神的な合一を描いている。
そして、両作とも、主人公自らの離脱によって、オタク的価値観を象徴するバーサスタウン(ユートピア)や地方都市(反ユートピア)の相対化がなされ、その絶対的な地位は変貌していく。
両作の主人公は、二つの価値観の齟齬に苦しみ、闘いを繰り返して価値観の融合に何とか成功し、その上でさらに先に進もうとする。
このとき、かつてのユートピアは失われ、その姿を変えてしまうが、これは、主人公の自身の成長と表裏をなす。

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オタク的自分と非オタク的自分のように、相対立する価値観のそれぞれを表す人格は、ドッペルゲンガーと考えることもできる。
ユートピアにとどまればドッペルゲンガーが生じなかった昔とは異なり、現在は自身の中での価値観の対立が当然となっている。ドッペルゲンガーの存在は不可避なのだ。ドッペルゲンガー同士を擦り合わせて融合させるには、痛みが伴う。
カナと白雪の融合、悦郎とテツオの融合も、なかなか一体にならないドッペルゲンガーを擦り合わせることに他ならない。噛み合わない凹凸を削り落として〈融合〉させるには、痛み=犠牲がつきものである。
ユートピアや地方都市からの脱出を自身のテーマとしている、と自ら分析する桜坂洋桜庭一樹だが、ほかの作品ではどのように、〈融合〉が描かれているのか。
All You Need Is Kill。繰り返す日々は反ユートピアの典型で、梅干勝負のシーンがユートピアとして描かれているだけに、それ以外の反復の反ユートピア性が強調されている。そして、反ユートピアからの脱出にはリタという犠牲が必要だった。成長したケイジは、独り新たな戦いに向かう決意をする。
砂糖菓子の弾丸は撃ち抜けない。地方都市と蜷山の間の往還によってなぎさが成長する*3には、反ユートピアにとらわれる少女藻屑の死が必要だった。

AIR ~Standard Edition~

議論の余地はあるかもしれないが、AIR美凪脱出エンドにも同じ傾向が見られるように思う。みちるを喪失した美凪が往人と街を出るシーン。母の鎖と街のくびきを抜けるには、みちるの犠牲が必要だった。
余談だが、ヒロイン観鈴を見守る視点から描かれるAir編では、視点の持ち主「そら」の無力感が印象深い。未来へ向かうことを決心した悠有を見守るしかなく、彼女とともに進むすべも彼女を止めるすべも持っていない卓人の姿と、どこか符合している。
話を戻そう。
自ら代償を払って自身の二面性を融合させる、桜坂洋桜庭一樹が今まさに評価されているのには、こんなテーマがその裏にあるからだ、という気がしてならない。

世代間闘争の場なんだよ、社長

新城カズマのヒット作に、南洋に浮かぶ宇津帆島を舞台に10万人の生徒たちが繰り広げる大騒ぎを描く蓬莢学園シリーズ(1991年〜)がある。このシリーズもまた、光画部的なユートピアを描く作品群である。

ヴェイスの盲点―クレギオン〈1〉 (ハヤカワ文庫JA)

そして、サマー/タイム/トラベラーが本来発行されるはずだった時期、同じハヤカワ文庫JAからは、野尻抱介クレギオンシリーズ(1992年〜)が再刊されている(JAの番号を参照)。このシリーズを光画部として見たとき、どうにもだらしない社長が超人に当たるのかもしれない。
また、笹本祐一妖精作戦(1984年〜)は、超人の嚆矢とされる沖田をメインキャラに配し、各巻で光画部を描き続ける。ただし最後だけは、ヒロインが消失し、光画部の消滅を匂わせて終わる。
これらの作品では、「ユートピアの中で僕らがいかに生きていくべきか」が問われている。抜け出せない〈ユートピア〉と自分との関係性をいかに構築していくか、を模索する物語ということができる。
神林長平大原まり子に代表されるSF第3世代の後、SF冬の時代の吹雪にたえてうるわしい梅を開花させたのがSF第4世代であるとするならば、彼らこそがそれにふさわしいと思う。

マルドゥック・スクランブル―The First Compression 圧縮 (ハヤカワ文庫JA)

では、SF第5世代に該当する冲方丁マルドゥック・スクランブル(2003年) *4小川一水の復活の地(2004年) *5の位置付けはどうなるか。
両作とも、退廃した社会や廃虚と化した星の中で自分自身を探す物語である点で、上記のSF第4世代とテーマ性は共通する。しかし、次のような違いも感じる。

復活の地 1 (ハヤカワ文庫 JA)

マルドゥック・スクランブルでは、過去のトラウマにとらわれていたヒロインとその敵が、戦いを通じて過去の傷を解消していく。この様は、反ユートピアからの脱出による成長物語ととらえても良いだろう。
復活の地もまた、廃虚と化した星を再建することにより、反ユートピアからユートピアへの変貌を内側から促している、と見ることもできる。
桜坂洋桜庭一樹が扱うテーマは、冲方丁小川一水ユートピアに対する姿勢をさらに推し進めたものである。ことここに至って、SF第4世代とは一線を画していると思うのだ。
まとめると、

  • SF第4世代作品は、オタク第2世代向けで、安定したユートピアの中で、そのユートピアと自分との関係性を問う。
  • SF第5世代作品は、オタク第3世代向けで、ユートピアから離脱し闘う過程を経て成長する自分と、変貌するユートピアを描く。
  • 笹本・野尻・新城の第4世代から、冲方・小川による模索の期間をくぐり抜け、桜坂・桜庭に至って第5世代に共通するテーマが明確になってきた。

私にはこのような基本モデルがしっくりくる。その上で私は、作品群や作家群各々の差異を見極めていきたいと思っている。
個人的な感傷ではあるが、蓬莢学園はもちろん、クレギオンロケットガール(1995年〜)、妖精作戦やARIEL(1987年〜)は、私の心に残る作品だ。
これらの作品では当時の私にとっての友人関係の理想形が描き出されていた。だから、サマー/タイム/トラベラーを読むと、あの頃の想いが甦ってくるのかもしれない。
私もまた、あのときのままの姿で訪れる「本」により、あの頃のユートピアにとらわれ続ける「悲劇」を生きているのだ。

継ぐのは何か?

先の分類は共通項でくくっているため、ある意味で大雑把である。だから、以前に私が違和感を感じたのと同じように、奇妙な感情を覚える読者も多いかもしれない。
もしそうであるなら、ぜひその違和感の原因となる「差異」、その「差異」が生ずる理由を考えて欲しい。同意も反論も、結局は共通点と差異の抽出の作業であり、その作業自体が楽しいことだからだ。
まだまだ始まったばかりのリアル・フィクション
それは、東浩紀いうところの新しい〈文学運動〉*6 になるのかもしれない。
あるいは、SF新世代への端緒となるのかもしれない。
今後の動向に目が離せない。

追記
「卓人にとって、結婚前日、コンペ落選」を「卓人にとって、結婚、コンペ落選」に修正しました。ご指摘ありがとうございました。(2005.08.20)