涼宮ハルヒとポストモダン、AYNIKとハイデガー

群像 2007年 07月号 [雑誌]
対談 筒井康隆+東浩紀 キャラクター小説ポストモダン 群像2007年7月号 講談社*1

時をかける少女*2 *3の作者/原作者にして、キャラクターに哲学を語らせる文学部唯野教授*4の著者でもある筒井康隆ゲーム的リアリズムの誕生*5を巡って著者 東浩紀と語る対談。
ベティ・ブープ*6オタクでもある筒井康隆は、彼女が女優という設定のキャラクターであり、漫画の中で様々な役柄を演じる様子にキャラクターの自律化を感じているようです。
飜訳小説を読んでいると、自然描写が延々続くことがあって辟易することがあるんですが、その大元は自然主義的リアリズムにあって、昔のロシアやフランスには、自然がありふれていたが故に、自然に感情移入してそれを描写するのが大好きという作家や、それを普通のこととして受け止める読者が沢山いた、とのこと。

差し詰め「現在の漫画・アニメ・ライトノベルの状況は、架空のキャラクターがありふれているが故に、キャラに感情移入する作家や読者が沢山いる」という感じ。ラノベを受け付けない人の辟易感が、しつこい自然描写に対する辟易感の延長で理解できたような気がしました。
ドストエフスキー小説に出てくるキャラクターは、荒唐無稽なのにリアリティがあるのは当時の状況が劇的だったからで、平板な日本社会ではキャラクターのデータベースを参照して登場人物を作らざるをえない、という議論に、ちょっと納得。
ゲーム的リアリズムについては、具体的なライトノベル作品として涼宮ハルヒの消失(谷川流) *7All You Need Is Kill(桜坂洋) *8の2作を取り上げています。そして、ゲーム的リアリズムが現れやすいモチーフの一つ 時間ループ・リセットモノに関連して、ポストモダンの源泉の一人、ハイデガーの「最極限の未了」を引いています。

……最極限というのはまさに死ぬというその、死の時のことで、未了というのは、それでもまだ人間は終わっていないということです。どんなに功なり名とげた人でも、可能性を残して死ぬのだから、未了なんです。……死というのはとてもまともに向き合えないような物凄い形相をしているから、誰だって跳ね飛ばされてしまう。自分の過去に跳ね飛ばされて、現在にまで戻ってきた時に、自分がこれから何をするべきかがわかるって言うんです。……

ループ・リセットを取り扱うならば、「跳ね飛ばされる」瞬間に「死の形相」を見るかどうかが重要ということでしょうか。このようなループ・リセット観の下で、筒井康隆は、こんな風に言っています。

……涼宮ハルヒも最初の何冊かを読んで、四冊目の『涼宮ハルヒの消失』が一番の傑作……

『消失』では、「死の形相」は明らかではないようですが、ハルヒが消えたかのように見えることや、文学少女版の長門と対人間用インターフェース版の長門の選択・他方の消滅に、「死の形相」が暗示されている、ということでしょうか。
『消失』の初読時の自分の感想を見ると、「新キャラを出さないこと」に注目していたようです。ベティが様々な舞台で様々な役柄を演じるところにキャラクター小説の萌芽があるとするならば、新キャラを出さずに同じキャラクターを使い尽くす、というのも、ゲーム的リアリズムの現われなのかもしれません。

……All You Need Is Kill』がたいへん重要な小説……何度も死が繰り返される『All You Need Is Kill』は、まるでハイデガーの哲学をすら思わせます。……All You Need Is Kill』では、まさにこの過程を何度も繰り返していることになります。そこに凄さがあるわけで、文学性どころの騒ぎじゃない。たいへん哲学的な小説であるとも言える……

ハイデガーを引いての絶賛は初めての切り口で、さすが筒井康隆、抽斗の数が違うと思いました。筒井康隆の講演「生と死―最極限の未了」*9とどういう関係にあるのか等、もう少し詳しく知りたいところ。
過去に戻ることでキャラの死をなかったことに歴史改変する『時かけ』の作者だからこそ、『AYNIK』の時間ループで、死をそのまま死として受け入れ、死の形相に立ち向かい、偽りの繰り返しを拒否するのリタやキリヤの姿勢を、このように評価できたのかもしれません。
そういえば『消失』も『AYNIK』も2004年発行、ちょうど3年前。情報フレアが生じてからSOS団が結成されるまでと同じ期間です。ライトノベルレーベルの情報爆発が起きている今になっても、この2作の「わたしは、ここにいる」との主張に対しては、長門よろしく、まだまだ《観測》が必要ということですね。
それにしても、73歳にして『ハルヒ』や『AYNIK』を読みこなす精神の若さ。やっぱり筒井康隆は侮れません。

><